Major Mak's Diary*
プロテスタントのキリスト教会「救世軍」の少佐の日記
2012年5月2日
日本が単独で戦争する能力について
日本が単独で戦争をする能力とは何か? 幕末の志士は、サハリン、アムール川、朝鮮半島に防衛線を張らなければ、ロシアの南下圧力に抗することは出来ないと考えた。この「松蔭ドクトリン」によって維新後の国防戦略が構想されたのである。本土と朝鮮半島と満州に戦時50個師団を目指した。
では50個師団あれば本当に戦争に勝てるのか? 国家予算の大半を注いで編成した陸軍の「ショーケース」として実験したノモンハン事変は、目もあてられない惨敗となった。ここで日本は、ロシアと戦争する選択肢を断念し、日ソ中立条約を結んで、中国との戦争に集中するために米英との戦端を開いた。
この戦争に国家の人的資源と経済的資源の全部を注ぎ込んだ。戦争完遂のためだけに100パーセント特化した国家社会体制を設計し動かしたのは、マルクス経済学を実験地満州で予行済みの国家企画院の天才たちであった。そうであってもなお、戦争に勝つことは出来なかったのである。
敗戦の残した教訓は、「勝てる戦争を行うことはそもそも不可能であった」ということである。実はこの点は、開戦を決めた御前会議の前の時点においてすでにわかっていたことだった。新庄健吉主計大佐の計算で、日米の国力差により、長期戦となれば必ず日本が負けることはシミュレート済みであった。
戦時50個師団・米英と同等の海軍力・国家総動員の戦時体制・それでも長期戦になれば必ず負けるとわかっている戦争。だから短期で講和に持ち込む手段として、真珠湾奇襲が立案され、御前会議のゴーサインが出たのだ。しかし、空母を取り逃がし、ミッドウェーでも逃がした時点で、短期講和は消えた。
ミッドウェーで逃がした空母を叩く手段を失った以降、必ず負けることが自明である戦争をずるずると終わりなく続けるしかなくなった。勝てないとわかっていた戦争を始めてしまった結果である。戦艦大和に乗り込んだ大学生の士官たちは、勝つために出陣するのではなく、実存的哲学的決断として出陣した。
自分たちの死は、もはや日本が勝つためではなく、負けた後の人間が目を覚まして新たな生き方を開始するためである。そのために死ぬ、という実存的哲学的決断である。さて、日本が単独で戦争する能力を持ちたいと思うのは、維新以来の壮大な歴史の実験を完全に忘却した考えだと言わざるを得ない。
50個師団・米英と同等の海軍力・国家総動員の戦時体制・サハリンからアムール川を経て朝鮮半島と華北に至る国防圏。これをもってしても戦争には勝てなかった。そうであるのに、再びこれと匹敵する能力を持ちたいと本気で思うのか? そうでないとしたら、核兵器を持ちたいというのが本心だろう。
単独で戦争を遂行する能力を持ちたいとは、核兵器を持ちたい、ということでしかない。だが核兵器を持ったらどうなるのか? 後はどちらが先にボタンを押すかという間合いの勝負だけになる。核兵器の前で空母は無意味であり、海軍基地は無意味であり、陸軍基地は無意味であり、空軍基地は無意味となる。
だが、核兵器の前に唯一無意味でない兵器がある。潜水艦である。潜水艦は居場所を隠し、逃げおおせる。ゆえに、われわれにとっての現在のほとんど唯一の脅威は、核兵器を搭載した潜水艦ということになる。では、その潜水艦が最も恐れるのは何か?
潜水艦が恐れるのは駆逐艦ではない。駆逐艦は索敵行動中のスクリュー音を潜水艦に察知されて魚雷攻撃を食らってしまうからである。しかしソナーを空中から投げ込む対潜哨戒ヘリコプターは、潜水艦の真の脅威である。ヘリコプターは自在に動き、かつ、潜水艦はヘリコプターを攻撃する手段を持たない。
潜水艦がヘリコプターを攻撃するには浮上して発砲するほかない。浮上した潜水艦は練習用の標的でしかない。かくして、潜水艦を心底震えさせるのは対潜哨戒ヘリコプター搭載空母である。単独で戦争する能力を持つという非現実的空想を遥かに超えて、ヘリコプター空母は仮想敵にとって最強の脅威である。
われわれの政府の内閣は(古い言い方なら陛下の政府の内閣は)連日新聞や野党に無能呼ばわりされて、特に気の効いた反論もしない。だが、ヘリコプター空母に対しては着実に予算を付けて造艦を進めている。単独で戦争する能力とか核兵器とか言う大言壮語は無視して、黙って着実に仕事をしているのだ。
では50個師団あれば本当に戦争に勝てるのか? 国家予算の大半を注いで編成した陸軍の「ショーケース」として実験したノモンハン事変は、目もあてられない惨敗となった。ここで日本は、ロシアと戦争する選択肢を断念し、日ソ中立条約を結んで、中国との戦争に集中するために米英との戦端を開いた。
この戦争に国家の人的資源と経済的資源の全部を注ぎ込んだ。戦争完遂のためだけに100パーセント特化した国家社会体制を設計し動かしたのは、マルクス経済学を実験地満州で予行済みの国家企画院の天才たちであった。そうであってもなお、戦争に勝つことは出来なかったのである。
敗戦の残した教訓は、「勝てる戦争を行うことはそもそも不可能であった」ということである。実はこの点は、開戦を決めた御前会議の前の時点においてすでにわかっていたことだった。新庄健吉主計大佐の計算で、日米の国力差により、長期戦となれば必ず日本が負けることはシミュレート済みであった。
戦時50個師団・米英と同等の海軍力・国家総動員の戦時体制・それでも長期戦になれば必ず負けるとわかっている戦争。だから短期で講和に持ち込む手段として、真珠湾奇襲が立案され、御前会議のゴーサインが出たのだ。しかし、空母を取り逃がし、ミッドウェーでも逃がした時点で、短期講和は消えた。
ミッドウェーで逃がした空母を叩く手段を失った以降、必ず負けることが自明である戦争をずるずると終わりなく続けるしかなくなった。勝てないとわかっていた戦争を始めてしまった結果である。戦艦大和に乗り込んだ大学生の士官たちは、勝つために出陣するのではなく、実存的哲学的決断として出陣した。
自分たちの死は、もはや日本が勝つためではなく、負けた後の人間が目を覚まして新たな生き方を開始するためである。そのために死ぬ、という実存的哲学的決断である。さて、日本が単独で戦争する能力を持ちたいと思うのは、維新以来の壮大な歴史の実験を完全に忘却した考えだと言わざるを得ない。
50個師団・米英と同等の海軍力・国家総動員の戦時体制・サハリンからアムール川を経て朝鮮半島と華北に至る国防圏。これをもってしても戦争には勝てなかった。そうであるのに、再びこれと匹敵する能力を持ちたいと本気で思うのか? そうでないとしたら、核兵器を持ちたいというのが本心だろう。
単独で戦争を遂行する能力を持ちたいとは、核兵器を持ちたい、ということでしかない。だが核兵器を持ったらどうなるのか? 後はどちらが先にボタンを押すかという間合いの勝負だけになる。核兵器の前で空母は無意味であり、海軍基地は無意味であり、陸軍基地は無意味であり、空軍基地は無意味となる。
だが、核兵器の前に唯一無意味でない兵器がある。潜水艦である。潜水艦は居場所を隠し、逃げおおせる。ゆえに、われわれにとっての現在のほとんど唯一の脅威は、核兵器を搭載した潜水艦ということになる。では、その潜水艦が最も恐れるのは何か?
潜水艦が恐れるのは駆逐艦ではない。駆逐艦は索敵行動中のスクリュー音を潜水艦に察知されて魚雷攻撃を食らってしまうからである。しかしソナーを空中から投げ込む対潜哨戒ヘリコプターは、潜水艦の真の脅威である。ヘリコプターは自在に動き、かつ、潜水艦はヘリコプターを攻撃する手段を持たない。
潜水艦がヘリコプターを攻撃するには浮上して発砲するほかない。浮上した潜水艦は練習用の標的でしかない。かくして、潜水艦を心底震えさせるのは対潜哨戒ヘリコプター搭載空母である。単独で戦争する能力を持つという非現実的空想を遥かに超えて、ヘリコプター空母は仮想敵にとって最強の脅威である。
われわれの政府の内閣は(古い言い方なら陛下の政府の内閣は)連日新聞や野党に無能呼ばわりされて、特に気の効いた反論もしない。だが、ヘリコプター空母に対しては着実に予算を付けて造艦を進めている。単独で戦争する能力とか核兵器とか言う大言壮語は無視して、黙って着実に仕事をしているのだ。
2012年4月29日
人生を変える心の持ち方
聖句 テモテ二1:7
神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。
はじめに
金曜のことですが、わたしは救世軍の制帽を電車の網棚に忘れてしまいました。駅の改札を出た時に気付いたのですが、もう後の祭りです。遺失物係に行って、帽子のかたち、色、電車の何両目のどこらへんに置いたか説明して、探してもらいました。なさけないものですねえ。普段無意識に乗ってるもんですから、何両目の右側か左側かなんてことすら思い出せないのです。わたしのかぶってる帽子とういのはサイズが61センチでして、こんな大きいのはなかなか売ってません。買うとなったら取り寄せになります。面白いことに出版供給部というのは海外の品物は半年ぐらい待たないと入って来ない。戦争しているのに補給品が半年も入って来ないとなったら大変なことですが、しかたがない。もし帽子が出て来なかったら、当分無しで済ますしかないだろう。そうつらつら考えておりますと、ほんとうに心は落ち込み、肩はがっくりいたします。
ここが人生の変わり目ですね。これでこのまま暗い気分に引きずり込まれて行きますと、今日一日は薄曇りの日になってしまいます。ぱっと気分を切り替えることさえできたら、今日一日は明るい日の差した一日にもなるのです。いったいどうしたら、わたしらは気分を切り替えることができるんだろうか。今日そのことをご一緒に見てみたいのです。
そこで第一に、神がわれらに与えたもうのは、おくびょうの霊ではない、ということであります。
何か失敗しますと、心がちぢこまってしまいます。すると、何をするにも、誰に会うにも、恐れを感じるようになります。不思議なものでありまして、いま普通にやってる寝たり起きたり食べたり仕事したり笑ったり歩いたりということが、心がちぢこまりますと、とたんに出来なくなってしまう。わたしたちの人生を決定しているのは、ひとえにこの「心の持ち方」であります。
ところが、神がわれらに与えたもうのは、おくびょうの霊ではない、と聖書は言ってる。おくびょうの霊ではない。神様は、わたしたちが小さくちぢこまって、何も出来ずにいるような人生を与えられたのではない。わたしらが勇気を持って立ちあがり、前に進んで勝利を経験することを、神様は願っていたもう。そのために神様は力と愛と思慮分別とを、わたしたちに与えていてくださるというのです。
そこで第二に、わたしたちの人生を前に進めることができるように、神様は力と愛を備えていたもう、ということであります。
ちぢこまっている心。その中に、神様はイエス・キリストの御霊である聖霊を送ってくださいます。実にイエス様が十字架にかかり三日目に復活しわたしたちの罪を赦してくださったのは、この聖霊をわたしたちに与えてくださるという、ひとつの大目的のためである。聖霊を与えるためにこそ十字架と復活があった、と言っても過言ではありません。イエス様が尊い命をかけて与えてくさった聖霊。その聖霊が、信じるわたしらの心のうちに今日注がれているのであります。
その聖霊が、力と愛をわたしたちの心の中に供給してくださる。わたしたちは失敗してちぢこまってしまうことがあるかしれない。しかし聖霊をとおして力と愛をいただくときに、心は解き放たれ、勇気を与えられ、立ちあがって、前に一歩踏み出して行けるようにされるのです。
ここで重要なのは、力と愛は、思慮分別をとおして解き放たれる、ということであります。
そこで最後に、思慮分別の大切さ、ということであります。
いったいわたしたちの心には「思い」というものがあります。これがいつでも揺れ動いておりまして、鏡のようなべたなぎの静かな日もありますれば、荒れに荒れてゆれうごく日もあります。大事な帽子を電車でなくした日なんか、思いが波立って、平安ではいられません。
ところが、わたしたちの「思い」とはまったく別に、わたしたちの「信心」というものがあります。信心とは、神を信じる信仰の知識であります。すなわち、神様が天地万物を造りたもうた。神様はその独り子イエス様を十字架につけて、わたしたちの罪を赦してくださった。イエス様は三日目によみがえり、聖霊を、また永遠の命を与えてくださった。イエス様は再び来られて、わたしらの救いを完成なさる。こういうことを全部信じている信仰の知識が「信心」であります。わたしたちが信じていることの内容。これは、わたしたちの思いとはまた別のものであります。ありていに申しますと、わたしたちの思いがべたなぎのように静かであっても、大波で荒れ狂っていても、わたしたちの思いがどうであろうとも、イエス様が十字架にかかり三日目に復活し天に昇り再びおいでになるという信仰の事実、信仰の事実は、ただの1ミリも微動だにしないのです。
だからわたしたちは、自分の思いというものと信心というものを、切り分けて考えなければなりません。今日の心のゆれうごくさまと、自分を救っているところの信仰の事実とを、切り離して考えるのでなければなりません。そうしないとしたら、昨日は晴れていたからきっとわたしは救われていたんだ。でも今日は曇って雨が降っているからわたしは地獄に行くんだ。そんな不安定な歩みしかできないことになってしまいます。
さて、神様の力、神様の愛は、どうやって解き放たれるんだろうか。わたしたちの思いを通して解き放たれるんだろうか。そうではありません。いつでも揺れ動いて定まるところがないわたしたちの思い、感情、気分。そうしたものから力と愛はやってきません。
それでは、神様の力、神様の愛は、わたしたちの信心を通して解き放たれるんだろうか。そうでもありません。ヤコブの手紙には極論が書いてありまして、「悪魔ですら神を信じているではないか!」と言われております。極論すれば、悪魔ですら、イエス様が十字架にかかり三日目に復活し天に昇り神の右に座し世の終わりに再びおいでになるということは、ちゃんと信じてわかっているのです。
神様の力、神様の愛は、ただわたしたちが神様の御心にお従いすることを通してのみ、解き放たれることができるのです。神様の御心は、静かに語りかける聖霊のお声をとおして、わたしたちの心の中に今この瞬間啓示されているのです。
残念ながら、わたしたちの心の中においては、わたしたちの思いと、わたしたちの信心と、啓示された神様の御心という三つのものが、ごちゃまぜの状態になっている。わたしたちはゴミを捨てるときにちゃんと分別しないと怒られますけども、わたしたちの心もきちんと分別しなければならない。わたしたちは自分の心をよくみて、これはわたしの思い、これはわたしの信心、これはわたしに示された神様の御心だ、というふうに、思いと信心と御心を、きちんと切り分けなければならない。これが今日の聖書が言うておるところの「思慮分別」ということであります。
いったい思慮分別のない心といったら、どんなものだろうか。わたしはこう信じているんだから、聖書にこう書いてあるんだから、何がなんでも絶対にそうなるんだ、と言って無茶するけども、そもそも神様の御心を無視しているという、それが思慮分別の無い心であります。聖書に「高いところから飛び降りたら、地面にぶつからないよう天使が支えてくれる」と書いてあるじゃないか。だからそのとおりにやってみろ、と悪魔は荒野でイエス様を誘惑いたしました。これに対してイエス様は「一番大事なのは神様の御心を行うことだ」とお答えになりました。
思慮分別のない心といったら、どんなものだろうか。わたしの心は炎のように燃えているから何でも手当たり次第にガンガンやっちゃうよ。でも、ひとたびしょぼんとなったら動けなくって、起き上がることもできなくなっちゃう。すべてを決めているのは自分の「思い」であって、神様の御心は無視しているという、それが思慮分別の無い心であります。ペトロは血気盛んなときは「先生と一緒にいつでも死ぬ覚悟ですぜ」と息巻いておりましたが、ひとたび心がしぼむと「イエスなんて男は会ったこともない」と三度嘘をつくという、情けないありさまでありました。
しかし思慮分別があるならば、わたしたちは自分の心を切り分けることができます。ここにわたしの思いがある。ここにわたしの信心がある。ここにわたしがお従いするべき神様の御心がある。わたしは、神様の御心に従って行こう。神様の御心に従って生きる決心をするときに、わたしたちの思いはそれについて行きます。わたしたちの信心はそれについて行きます。その時わたしたちは、神様の力と愛を経験し、勇気をもって、前に進んで行くことができるようにされるでありましょう。
むすびとして
わたしたちは自分の心を今日神様の前に静かにおいて、吟味いたしましょう。これがわたしの思いである。これがわたしの信心である。これがわたしに示された神の御心である。主よ、どうかわたしのすべてをささげて、ただ神様の御心にお従いさせてください。これが、今日わたしたちが真剣にささげるべき祈りであります。お祈りいたしましょう。
神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。
はじめに
金曜のことですが、わたしは救世軍の制帽を電車の網棚に忘れてしまいました。駅の改札を出た時に気付いたのですが、もう後の祭りです。遺失物係に行って、帽子のかたち、色、電車の何両目のどこらへんに置いたか説明して、探してもらいました。なさけないものですねえ。普段無意識に乗ってるもんですから、何両目の右側か左側かなんてことすら思い出せないのです。わたしのかぶってる帽子とういのはサイズが61センチでして、こんな大きいのはなかなか売ってません。買うとなったら取り寄せになります。面白いことに出版供給部というのは海外の品物は半年ぐらい待たないと入って来ない。戦争しているのに補給品が半年も入って来ないとなったら大変なことですが、しかたがない。もし帽子が出て来なかったら、当分無しで済ますしかないだろう。そうつらつら考えておりますと、ほんとうに心は落ち込み、肩はがっくりいたします。
ここが人生の変わり目ですね。これでこのまま暗い気分に引きずり込まれて行きますと、今日一日は薄曇りの日になってしまいます。ぱっと気分を切り替えることさえできたら、今日一日は明るい日の差した一日にもなるのです。いったいどうしたら、わたしらは気分を切り替えることができるんだろうか。今日そのことをご一緒に見てみたいのです。
そこで第一に、神がわれらに与えたもうのは、おくびょうの霊ではない、ということであります。
何か失敗しますと、心がちぢこまってしまいます。すると、何をするにも、誰に会うにも、恐れを感じるようになります。不思議なものでありまして、いま普通にやってる寝たり起きたり食べたり仕事したり笑ったり歩いたりということが、心がちぢこまりますと、とたんに出来なくなってしまう。わたしたちの人生を決定しているのは、ひとえにこの「心の持ち方」であります。
ところが、神がわれらに与えたもうのは、おくびょうの霊ではない、と聖書は言ってる。おくびょうの霊ではない。神様は、わたしたちが小さくちぢこまって、何も出来ずにいるような人生を与えられたのではない。わたしらが勇気を持って立ちあがり、前に進んで勝利を経験することを、神様は願っていたもう。そのために神様は力と愛と思慮分別とを、わたしたちに与えていてくださるというのです。
そこで第二に、わたしたちの人生を前に進めることができるように、神様は力と愛を備えていたもう、ということであります。
ちぢこまっている心。その中に、神様はイエス・キリストの御霊である聖霊を送ってくださいます。実にイエス様が十字架にかかり三日目に復活しわたしたちの罪を赦してくださったのは、この聖霊をわたしたちに与えてくださるという、ひとつの大目的のためである。聖霊を与えるためにこそ十字架と復活があった、と言っても過言ではありません。イエス様が尊い命をかけて与えてくさった聖霊。その聖霊が、信じるわたしらの心のうちに今日注がれているのであります。
その聖霊が、力と愛をわたしたちの心の中に供給してくださる。わたしたちは失敗してちぢこまってしまうことがあるかしれない。しかし聖霊をとおして力と愛をいただくときに、心は解き放たれ、勇気を与えられ、立ちあがって、前に一歩踏み出して行けるようにされるのです。
ここで重要なのは、力と愛は、思慮分別をとおして解き放たれる、ということであります。
そこで最後に、思慮分別の大切さ、ということであります。
いったいわたしたちの心には「思い」というものがあります。これがいつでも揺れ動いておりまして、鏡のようなべたなぎの静かな日もありますれば、荒れに荒れてゆれうごく日もあります。大事な帽子を電車でなくした日なんか、思いが波立って、平安ではいられません。
ところが、わたしたちの「思い」とはまったく別に、わたしたちの「信心」というものがあります。信心とは、神を信じる信仰の知識であります。すなわち、神様が天地万物を造りたもうた。神様はその独り子イエス様を十字架につけて、わたしたちの罪を赦してくださった。イエス様は三日目によみがえり、聖霊を、また永遠の命を与えてくださった。イエス様は再び来られて、わたしらの救いを完成なさる。こういうことを全部信じている信仰の知識が「信心」であります。わたしたちが信じていることの内容。これは、わたしたちの思いとはまた別のものであります。ありていに申しますと、わたしたちの思いがべたなぎのように静かであっても、大波で荒れ狂っていても、わたしたちの思いがどうであろうとも、イエス様が十字架にかかり三日目に復活し天に昇り再びおいでになるという信仰の事実、信仰の事実は、ただの1ミリも微動だにしないのです。
だからわたしたちは、自分の思いというものと信心というものを、切り分けて考えなければなりません。今日の心のゆれうごくさまと、自分を救っているところの信仰の事実とを、切り離して考えるのでなければなりません。そうしないとしたら、昨日は晴れていたからきっとわたしは救われていたんだ。でも今日は曇って雨が降っているからわたしは地獄に行くんだ。そんな不安定な歩みしかできないことになってしまいます。
さて、神様の力、神様の愛は、どうやって解き放たれるんだろうか。わたしたちの思いを通して解き放たれるんだろうか。そうではありません。いつでも揺れ動いて定まるところがないわたしたちの思い、感情、気分。そうしたものから力と愛はやってきません。
それでは、神様の力、神様の愛は、わたしたちの信心を通して解き放たれるんだろうか。そうでもありません。ヤコブの手紙には極論が書いてありまして、「悪魔ですら神を信じているではないか!」と言われております。極論すれば、悪魔ですら、イエス様が十字架にかかり三日目に復活し天に昇り神の右に座し世の終わりに再びおいでになるということは、ちゃんと信じてわかっているのです。
神様の力、神様の愛は、ただわたしたちが神様の御心にお従いすることを通してのみ、解き放たれることができるのです。神様の御心は、静かに語りかける聖霊のお声をとおして、わたしたちの心の中に今この瞬間啓示されているのです。
残念ながら、わたしたちの心の中においては、わたしたちの思いと、わたしたちの信心と、啓示された神様の御心という三つのものが、ごちゃまぜの状態になっている。わたしたちはゴミを捨てるときにちゃんと分別しないと怒られますけども、わたしたちの心もきちんと分別しなければならない。わたしたちは自分の心をよくみて、これはわたしの思い、これはわたしの信心、これはわたしに示された神様の御心だ、というふうに、思いと信心と御心を、きちんと切り分けなければならない。これが今日の聖書が言うておるところの「思慮分別」ということであります。
いったい思慮分別のない心といったら、どんなものだろうか。わたしはこう信じているんだから、聖書にこう書いてあるんだから、何がなんでも絶対にそうなるんだ、と言って無茶するけども、そもそも神様の御心を無視しているという、それが思慮分別の無い心であります。聖書に「高いところから飛び降りたら、地面にぶつからないよう天使が支えてくれる」と書いてあるじゃないか。だからそのとおりにやってみろ、と悪魔は荒野でイエス様を誘惑いたしました。これに対してイエス様は「一番大事なのは神様の御心を行うことだ」とお答えになりました。
思慮分別のない心といったら、どんなものだろうか。わたしの心は炎のように燃えているから何でも手当たり次第にガンガンやっちゃうよ。でも、ひとたびしょぼんとなったら動けなくって、起き上がることもできなくなっちゃう。すべてを決めているのは自分の「思い」であって、神様の御心は無視しているという、それが思慮分別の無い心であります。ペトロは血気盛んなときは「先生と一緒にいつでも死ぬ覚悟ですぜ」と息巻いておりましたが、ひとたび心がしぼむと「イエスなんて男は会ったこともない」と三度嘘をつくという、情けないありさまでありました。
しかし思慮分別があるならば、わたしたちは自分の心を切り分けることができます。ここにわたしの思いがある。ここにわたしの信心がある。ここにわたしがお従いするべき神様の御心がある。わたしは、神様の御心に従って行こう。神様の御心に従って生きる決心をするときに、わたしたちの思いはそれについて行きます。わたしたちの信心はそれについて行きます。その時わたしたちは、神様の力と愛を経験し、勇気をもって、前に進んで行くことができるようにされるでありましょう。
むすびとして
わたしたちは自分の心を今日神様の前に静かにおいて、吟味いたしましょう。これがわたしの思いである。これがわたしの信心である。これがわたしに示された神の御心である。主よ、どうかわたしのすべてをささげて、ただ神様の御心にお従いさせてください。これが、今日わたしたちが真剣にささげるべき祈りであります。お祈りいたしましょう。
2012年4月28日
不審メールのおしらせ
みなさまへ
わたくし山谷真が使用している makotoyamaya(at)yahoo.co.uk のメールが、2012年4月27日(金)午後5時24分頃にデンマークのIPアドレス87.58.103.25を使用して何者かによりハッキングされ、同日午後5時25分から27分頃にかけて、アドレス帳に記載されていた66件の宛先にスパムメールが送信された模様です。
つきましては、上記時刻にお手元に届いた同アドレスからのメールは、ウイルス感染サイトに誘導するものであると思われますので、開封せずに削除してくださるようお願いいたします。
なお、同アドレスのパスワードは直ちに変更して、現在ログイン状況を注意深く監視していますが、今のところ不正なログインは見られていません。
しかし、念のため今後、同アドレスから届くメールについては十分ご注意くださり、安易に開いたり記載のリンクをクリックしないようお気をつけください。
また、不審なメールが来た場合には、makotoyamaya@gmail.com の方へご連絡くだされば幸いです。
ご迷惑をおかけし、心よりお詫び申し上げます。
山谷謹白
---------------------------
To all recipients,
Makoto Yamaya's personal web mail, makotoyamaya(at)yahoo.co.uk was hacked on Friday April 27 2012 5:14pm(JST) from someone in Denmark using IP address 87.58.103.25. And spam mails were dispatched to 66 mail addresses on address book from 5:25pm to 5:27pm of that day.
The mail arrived to you from above address on above time and date should be considered as a spam mail which would lead you to virus contaminating web site. So please do not open it. Please delete it immediately.
Responding to the situation, pass word of the address was changed and the address is now under careful monitoring.
However, please be careful to further coming mails from makotoyamaya(at)yahoo.co.uk and please do not open it nor click link on it.
In a case you accept further suspicious mails from the above address, please contact to makotoyamaya@gmail.com and Makoto Yamaya will be obliged.
I feel very sorry for the situation.
Thank you.
Makoto Yamaya
わたくし山谷真が使用している makotoyamaya(at)yahoo.co.uk のメールが、2012年4月27日(金)午後5時24分頃にデンマークのIPアドレス87.58.103.25を使用して何者かによりハッキングされ、同日午後5時25分から27分頃にかけて、アドレス帳に記載されていた66件の宛先にスパムメールが送信された模様です。
つきましては、上記時刻にお手元に届いた同アドレスからのメールは、ウイルス感染サイトに誘導するものであると思われますので、開封せずに削除してくださるようお願いいたします。
なお、同アドレスのパスワードは直ちに変更して、現在ログイン状況を注意深く監視していますが、今のところ不正なログインは見られていません。
しかし、念のため今後、同アドレスから届くメールについては十分ご注意くださり、安易に開いたり記載のリンクをクリックしないようお気をつけください。
また、不審なメールが来た場合には、makotoyamaya@gmail.com の方へご連絡くだされば幸いです。
ご迷惑をおかけし、心よりお詫び申し上げます。
山谷謹白
---------------------------
To all recipients,
Makoto Yamaya's personal web mail, makotoyamaya(at)yahoo.co.uk was hacked on Friday April 27 2012 5:14pm(JST) from someone in Denmark using IP address 87.58.103.25. And spam mails were dispatched to 66 mail addresses on address book from 5:25pm to 5:27pm of that day.
The mail arrived to you from above address on above time and date should be considered as a spam mail which would lead you to virus contaminating web site. So please do not open it. Please delete it immediately.
Responding to the situation, pass word of the address was changed and the address is now under careful monitoring.
However, please be careful to further coming mails from makotoyamaya(at)yahoo.co.uk and please do not open it nor click link on it.
In a case you accept further suspicious mails from the above address, please contact to makotoyamaya@gmail.com and Makoto Yamaya will be obliged.
I feel very sorry for the situation.
Thank you.
Makoto Yamaya
2012年4月25日
第二十三回公判のご報告
本日2012年4月25日(水)午前11時より、東京地方裁判所第602号法廷のラウンドテーブルにて、通称「CT対山谷裁判」の(第二十三回公判)第十一回口頭弁論準備が行なわれました。
ラウンドテーブルには、合議体裁判所から裁判長の戸田久判事と陪席裁判官の中野雄壱判事の2名、原告側から原告訴訟代理人の高須和之弁護士と山浦昴弁護士と和田和純弁護士の3名、被告側から被告訴訟代理人の山口貴士弁護士と被告の山谷の2名、計7名が着席しました。
今回の口頭弁論準備において原告側は「準備書面(5)」を陳述し、被告側準備書面(7)に対する反論を展開しました。原告側は今後さらなる準備書面の提出をもって反論を継続することを予告しました。これとあわせて今回、原告側は追加の書証(証拠となる書面)を持参しましたが、これに対する「証拠説明書」が整っていなかったため、裁判所はこれを預かることとし、次回期日での証拠説明書の提出をもって書証を正式に受領することとなりました。
被告側は「被告本人陳述書」の前半部分を書証として持参し、裁判所はこれを預かることとし、次回期日での被告本人陳述書の後半部分と証拠説明書の提出をもって正式に受領することとなりました。
なお、被告側は原告側の反論がすでに終結したとの理解に立って被告本人陳述書の作成を開始していました。しかし今回、原告側は「準備書面(5)」およびそれに続く準備書面をもって追加的な反論を展開する方針であることを明らかにしました。このため被告側は、被告本人陳述書の後半部分の作成を続行するのと同時進行で、原告側の主張に対する必要な反論を準備し展開して行くことになりました。これにより、2012年中の訴訟の終結は難しくなることが予見されます。
閉廷後に開催された「裁判説明集会」で、被告側弁護士の山口貴士弁護士から、今回の趣旨説明が行なわれました。
「裁判説明集会」に続いて、裁判所地下の喫茶店「ダーリントンホール」にて「裁判支援者懇談会」(通称「裁判オフ会」)が開催されました。
貴重な時間を割いて、全国各地から遠路傍聴に来てくださった支援者の方々に心から感謝いたします。
次回、(第二十四回公判)第十二回口頭弁論準備は2012年7月2日(月)午前11時(東京地裁)となります。なお、法廷は本日現在未定ですが、法廷番号が決まり次第、当ブログまたは「裁判日記」にてお知らせいたします。
ラウンドテーブルには、合議体裁判所から裁判長の戸田久判事と陪席裁判官の中野雄壱判事の2名、原告側から原告訴訟代理人の高須和之弁護士と山浦昴弁護士と和田和純弁護士の3名、被告側から被告訴訟代理人の山口貴士弁護士と被告の山谷の2名、計7名が着席しました。
今回の口頭弁論準備において原告側は「準備書面(5)」を陳述し、被告側準備書面(7)に対する反論を展開しました。原告側は今後さらなる準備書面の提出をもって反論を継続することを予告しました。これとあわせて今回、原告側は追加の書証(証拠となる書面)を持参しましたが、これに対する「証拠説明書」が整っていなかったため、裁判所はこれを預かることとし、次回期日での証拠説明書の提出をもって書証を正式に受領することとなりました。
被告側は「被告本人陳述書」の前半部分を書証として持参し、裁判所はこれを預かることとし、次回期日での被告本人陳述書の後半部分と証拠説明書の提出をもって正式に受領することとなりました。
なお、被告側は原告側の反論がすでに終結したとの理解に立って被告本人陳述書の作成を開始していました。しかし今回、原告側は「準備書面(5)」およびそれに続く準備書面をもって追加的な反論を展開する方針であることを明らかにしました。このため被告側は、被告本人陳述書の後半部分の作成を続行するのと同時進行で、原告側の主張に対する必要な反論を準備し展開して行くことになりました。これにより、2012年中の訴訟の終結は難しくなることが予見されます。
閉廷後に開催された「裁判説明集会」で、被告側弁護士の山口貴士弁護士から、今回の趣旨説明が行なわれました。
「裁判説明集会」に続いて、裁判所地下の喫茶店「ダーリントンホール」にて「裁判支援者懇談会」(通称「裁判オフ会」)が開催されました。
貴重な時間を割いて、全国各地から遠路傍聴に来てくださった支援者の方々に心から感謝いたします。
次回、(第二十四回公判)第十二回口頭弁論準備は2012年7月2日(月)午前11時(東京地裁)となります。なお、法廷は本日現在未定ですが、法廷番号が決まり次第、当ブログまたは「裁判日記」にてお知らせいたします。
2012年4月24日
弱さと信仰について
信仰は、弱さの中に根ざしている神への信頼である。迷い、不安、恐れ、疑い、怒り、失望、悲嘆。そうした弱さの中から神への信頼が立ちあがる、これ自体がひとつの奇跡である。水の上を歩くようなことである。人間が信仰によって歩むようになるために、神は世界の後背へと退き隠れる。
堕罪した人間の生存を保障する諸権力は、確かで、間違いがなく、理にかない、法則に基づくものを尊ぶ。それが諸権力の誇る栄光である。しかし、神はそれらの後背に退き隠れる。そして、人間がただ弱さの中から神を信頼することを求める。求めに応えて誰かが信仰に立つたびごとに、諸権力は恥を受ける。
天地を闇が覆い、光が光を失い、神の独り子が「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んだあの瞬間、神は完全に世界の後背へ退き、人間の前から痕跡を消した。人間の弱さはその極みに達した。その弱さのただ中で、イエスは神を信頼して死んだ。この信頼に応えて父は子を復活させた。
人間の究極の弱さにあるイエス。究極の弱さの中での子の父への信頼。信頼に応えて子を復活させる父。この弱さに根ざした信頼において、諸権力が介在する場所は絶無となる。信頼において父と子が直結している。神はイエスを通して人間がこの直結に参入するよう招き寄せる。諸権力の栄光は打ち毀たれた。
蛇は「神抜きで強くなれる」と誘った。レメクは「強さが全てだ」と剣をかざした。アブラハムは弱さの中で神を信頼した。ヤコブは強かったのでももの筋を打たれた。ヨシュアは「神にあって強くあれ」と励まされた。ヨブの友人たちは弱さを罪だとみなした。ヨブは弱さの極みの中で神を信頼できなかった。
ペトロは自分は強いと思っていたが実は弱かったことを思い知った。イエスは弱さの極みの中で自分の霊を神の御手に委ねた。パウロは強くなりたいと祈ったが弱さに留め置かれ、「弱さを通して神の力が現れる」と確信するに至った。ヤコブは「自分は強い」と思っている人がほとんど危険であると指摘した。
「神抜きで強くなれる」「強さこそ全て」という諸権力と人間の願望がバビロンにおいて究極的に実現した時、バビロンは崩され、強い者たちは弱さの中に帰る。その時、あれは無力のうちに死んで敗北した、と強い者たちが思っていたイエスが、審判者として戻って来る。全ての弱い者たちを連れて戻って来る。
堕罪した人間の生存を保障する諸権力は、確かで、間違いがなく、理にかない、法則に基づくものを尊ぶ。それが諸権力の誇る栄光である。しかし、神はそれらの後背に退き隠れる。そして、人間がただ弱さの中から神を信頼することを求める。求めに応えて誰かが信仰に立つたびごとに、諸権力は恥を受ける。
天地を闇が覆い、光が光を失い、神の独り子が「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んだあの瞬間、神は完全に世界の後背へ退き、人間の前から痕跡を消した。人間の弱さはその極みに達した。その弱さのただ中で、イエスは神を信頼して死んだ。この信頼に応えて父は子を復活させた。
人間の究極の弱さにあるイエス。究極の弱さの中での子の父への信頼。信頼に応えて子を復活させる父。この弱さに根ざした信頼において、諸権力が介在する場所は絶無となる。信頼において父と子が直結している。神はイエスを通して人間がこの直結に参入するよう招き寄せる。諸権力の栄光は打ち毀たれた。
蛇は「神抜きで強くなれる」と誘った。レメクは「強さが全てだ」と剣をかざした。アブラハムは弱さの中で神を信頼した。ヤコブは強かったのでももの筋を打たれた。ヨシュアは「神にあって強くあれ」と励まされた。ヨブの友人たちは弱さを罪だとみなした。ヨブは弱さの極みの中で神を信頼できなかった。
ペトロは自分は強いと思っていたが実は弱かったことを思い知った。イエスは弱さの極みの中で自分の霊を神の御手に委ねた。パウロは強くなりたいと祈ったが弱さに留め置かれ、「弱さを通して神の力が現れる」と確信するに至った。ヤコブは「自分は強い」と思っている人がほとんど危険であると指摘した。
「神抜きで強くなれる」「強さこそ全て」という諸権力と人間の願望がバビロンにおいて究極的に実現した時、バビロンは崩され、強い者たちは弱さの中に帰る。その時、あれは無力のうちに死んで敗北した、と強い者たちが思っていたイエスが、審判者として戻って来る。全ての弱い者たちを連れて戻って来る。
2012年4月22日
人生に新しい活力を!
聖句 エフェソ1:18-21
はじめに
最近「ああ、疲れた」という言葉が口癖になっていませんか? わたしも家におりますと「ああ、疲れた」と家内がよく言います。職場に行きますと「ああ、疲れた」と周りの人がよく言います。もちろんわたしも「ああ、疲れた」とよく言います。
いったい疲れるということは罪ではありません。疲れても良いのです。イエス様は疲れたのでサマリヤの井戸のかたわらにへたりこんでお休みになった、と聖書に書いてあります。また、舟に乗り込むと、舟のとものほうですやすやと眠られた。舟がひっくり返るほど大嵐になっても全然気づかず眠っておられた、と聖書に書いてあります。よっぽど疲れておられたんですね。イエス様だって疲れたんだから、疲れることはけっして罪ではありません。人間として当然のことです。
しかしわたしたちはその上で、なお、生き生きとした心をもって生きて行きたいと願うのです。「人生の新しい活力」は、どこから来るんでありましょうか? それは、復活のキリストから来るのであります。
第1 新しい活力は復活のキリストから来る
先週の日曜日にサーティーワン・アイスクリームに娘と一緒に行きました。そしたら、色とりどりのプラスチックのイースターエッグに入ったアイスクリームが売っていました。娘が「もうイースター終わっちゃったのにね」と言いました。わたしはこう答えました。「ギリシャ正教やロシア正教などの正教会では今日4月15日がイースターなんだよ。世界の教会のほとんどは、教会のカレンダーにグレゴリオ暦を使っているけど、正教会ではいまだに古いユリウス暦を使っているから、イースターの日付がほかの教会から1週間ずれてしまうんだ。そういうわけで今年は4月8日がイースターだし、4月15日もイースターなんだ」 イースター、ひとつぶで2度おいしい、とは言いませんでしたが。
ギリシャ正教やロシア正教、日本ではハリストス正教と言います。ハリストスというのはキリストのことです。正教会の人たちはイースターの前日から徹夜の礼拝をします。なんとこの徹夜礼拝はイースターの当日、午前3時まで続きます。徹夜礼拝を祈り通してイースターの朝が来ると、イエス様の復活を祝う合言葉をみんなお互いに言います。それは「ハリストス復活!」と言うと、「実に復活!」と応える、という合言葉です。ちょっとみんなでやってみましょうか。「ハリストス復活!」「実に復活!」
徹夜で礼拝をするという。長い夜が明けるのを待ち遠しい思いで、夜を徹して祈り続ける。わたしたちの人生にも長い夜があります。トンネルをくぐるような日々が続くことがあります。いつになったら夜明けが来るんだろう、真っ暗で何も見えない、そういう時があります。でも、じっと静かに祈り続ける。やがて朝が近づいて来る。その時わたしたちは喜びを込めて互いに言うのです。「ハリストス復活!」「実に復活!」
イエス様は暗闇の力、死の力を打ち破って、復活してくださいました。その復活の力は、ひとりイエス様だけのものじゃない。重要なのは、イエス様の復活の力が、わたしら信者ひとりひとりにも分け与えられている、という信仰の事実であります。イエス様の復活の力、この絶大な神の力、それがこのわたしにも与えられている。今日お読みしたエフェソの信徒への手紙第1章18節から19節は、まさにそのことを言うております。
第2 復活の力を自分の中に受け取ろう
イエス様の復活の力。それはどんなものか。イエス様の復活の力。それはどうしたら受け取れるのか。
(1)1:18a「こころの目を開いてくださるように」
「信仰の事実」というのは、こころの目が開かれて、はじめて把握され得るものです。わたしたちもまた、こころの目がはっきり開かれて、自分に、この自分にもイエス様の復活の力が与えられているんだ、ということを見れるようになりたいのです。
(2)1:18b「神の招きによってどのような希望が与えられているか」
希望の光の中に入って来なさい。そう神様はわたしたちを手招きしておられます。今は確かにわたしたちは長いトンネルの中を通っているかしれない。でも、前方には希望の光が見えるのです。勇気をもって進みなさい。明るい出口に、明るい光に入って来なさい。そう神様は招いておられます。だから、途中で人生を投げ出してはいけません。
(3)1:18c「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」
わたしたち神を信じる者たちを、ここで「聖なる者たち」と表現しています。そうして、聖なる者たちには、受け継ぐべき大いなる遺産、相続財産が用意されているというのです。わたしなんかは自分のお財布に一円もお金がない時、こんな妄想をすることがありました。「実は自分が世界一の財閥の会長の隠し子で、その会長が急に亡くなった。財閥から黒塗りの車がお迎えに来て『あなたこそ財産を継ぐべき息子さんです。ついては遺産6兆円をお受け取りください』 ああ、困った、どうしよう!」 しかしこれは、いかにもちっぽけな話ではありませんか? わたしたち神を信じる者たちを、聖書は「神の子とされた者たち」と呼んでいます。エフェソ1:5に、神はわたしたちを「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになった」とあります。キリストに結ばれてあるならば、わたしたちは神の子であり、神の息子たち、神の娘たちです。そういうわたしたちに、神様は受け継ぐべき相続財産を用意していてくださる。それは、使えばなくなってしまうお金のようにはかないものではありません。実に、生ける神ご自身が、わたしたちの受け継ぐべき嗣業、相続財産となってくださるのです。神がわたしたちの嗣業である。
(4)1:19「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」
現代英語聖書TEV第3版では、ここは、こう訳されています。
「わたしたち信じる者たちに働く神の力はいかに絶大であるか。わたしたちの中にあるこの力は、実に大きなものであって、神はこの力を用いてキリストを死者の中から復活させ、キリストを神の右の座に着かせられたのです」
日本語の訳と違うようですが、言っていることは同じです。大切なのは;
第一、わたしたち信じる者に神の力が今この瞬間働いていること。
第二、この神の力は実に大きなものであること。
第三、神はこの力を用いてキリストを死者の中から復活させなすったこと。
第四、神はこの力を用いてキリストを天に挙げ、神の右に座せしめたもうこと。
第五、この神の力は今わたしたちの中に与えられてあること、であります。
むすびとして
以上のむすびとして言いますならば、この神の力、復活の力は、わたしたちがあえてことさら願い求むべきものではない。なぜか? なぜならこの復活の力は、わたしら信じる者たちのうちに、すでに与えられてあるものだからです。すでに復活の力がわたしたちに与えられている。これが信仰の事実です。わたしたちは目が開かれて、この信仰の事実を認識し、それを享受すること。毎日の生活の中で、この復活の力を享受することが大切であります。
わたしたちの生活への適用として
昔18世紀のロシアにサロフの聖セラフィムという聖人様がおりました。この聖人様は広大無辺なロシアの森の中に住んで祈りの生活をしていた人です。この人の徳を慕って毎日いろんな人が訪ねて来ました。すると聖セラフィムは、会う人会う人だれにも「ハリストス復活!」「実に復活!」とあいさつしたそうです。それは別段イースターだけに限ったことじゃない。1月1日でも、5月27日でも、8月4日でも、11月3日でも、12月25日でも、毎日毎日いつでもどこでも、雨でも風でも曇りでも、病気でも元気でも、良い日でも悪い日でも、聖セラフィムは口を開けばただ、「ハリストス復活!」「実に復活!」と大きな声で、おおよろこびで、だれにも言ったのです。
これは何が大切かというと、わたしたちがキリストの復活の力を日々の生活の中で自分のうちに解き放って行くという、これが一番大切だ、ということであります。わたしは確かに老い、痛み、衰えて、小さくなって行くだろう。明るい日ばかりでない、暗い日、悲しい日、心がふさぐ日があるだろう。しかもなお、わたしは沈んでは行かない。わたしは自分のうちに今あたえられているキリストの復活の力に思いをいたす。その力は、どこにあるのか? どこか遠くにあるのではない。その力は大昔のものではない。その力はいつか未来のものではない。その力、キリストの復活の力は、信じるわたしの心の中に、聖霊を通して今この瞬間、生きて働いているのだ。わたしはその力を用いて今この瞬間を生きよう。復活の力によって生きよう。そう宣言するのです。自分に対しても、他人対しても、宣言するのです。「ハリストス復活!」「実に復活!」 復活の力?いつ?どこに? いま!わたしの心に!であります。今週一週間、わたしたちはそのような信仰に立って、進んで行こうではありませんか。お祈りいたしましょう。
はじめに
最近「ああ、疲れた」という言葉が口癖になっていませんか? わたしも家におりますと「ああ、疲れた」と家内がよく言います。職場に行きますと「ああ、疲れた」と周りの人がよく言います。もちろんわたしも「ああ、疲れた」とよく言います。
いったい疲れるということは罪ではありません。疲れても良いのです。イエス様は疲れたのでサマリヤの井戸のかたわらにへたりこんでお休みになった、と聖書に書いてあります。また、舟に乗り込むと、舟のとものほうですやすやと眠られた。舟がひっくり返るほど大嵐になっても全然気づかず眠っておられた、と聖書に書いてあります。よっぽど疲れておられたんですね。イエス様だって疲れたんだから、疲れることはけっして罪ではありません。人間として当然のことです。
しかしわたしたちはその上で、なお、生き生きとした心をもって生きて行きたいと願うのです。「人生の新しい活力」は、どこから来るんでありましょうか? それは、復活のキリストから来るのであります。
第1 新しい活力は復活のキリストから来る
先週の日曜日にサーティーワン・アイスクリームに娘と一緒に行きました。そしたら、色とりどりのプラスチックのイースターエッグに入ったアイスクリームが売っていました。娘が「もうイースター終わっちゃったのにね」と言いました。わたしはこう答えました。「ギリシャ正教やロシア正教などの正教会では今日4月15日がイースターなんだよ。世界の教会のほとんどは、教会のカレンダーにグレゴリオ暦を使っているけど、正教会ではいまだに古いユリウス暦を使っているから、イースターの日付がほかの教会から1週間ずれてしまうんだ。そういうわけで今年は4月8日がイースターだし、4月15日もイースターなんだ」 イースター、ひとつぶで2度おいしい、とは言いませんでしたが。
ギリシャ正教やロシア正教、日本ではハリストス正教と言います。ハリストスというのはキリストのことです。正教会の人たちはイースターの前日から徹夜の礼拝をします。なんとこの徹夜礼拝はイースターの当日、午前3時まで続きます。徹夜礼拝を祈り通してイースターの朝が来ると、イエス様の復活を祝う合言葉をみんなお互いに言います。それは「ハリストス復活!」と言うと、「実に復活!」と応える、という合言葉です。ちょっとみんなでやってみましょうか。「ハリストス復活!」「実に復活!」
徹夜で礼拝をするという。長い夜が明けるのを待ち遠しい思いで、夜を徹して祈り続ける。わたしたちの人生にも長い夜があります。トンネルをくぐるような日々が続くことがあります。いつになったら夜明けが来るんだろう、真っ暗で何も見えない、そういう時があります。でも、じっと静かに祈り続ける。やがて朝が近づいて来る。その時わたしたちは喜びを込めて互いに言うのです。「ハリストス復活!」「実に復活!」
イエス様は暗闇の力、死の力を打ち破って、復活してくださいました。その復活の力は、ひとりイエス様だけのものじゃない。重要なのは、イエス様の復活の力が、わたしら信者ひとりひとりにも分け与えられている、という信仰の事実であります。イエス様の復活の力、この絶大な神の力、それがこのわたしにも与えられている。今日お読みしたエフェソの信徒への手紙第1章18節から19節は、まさにそのことを言うております。
第2 復活の力を自分の中に受け取ろう
イエス様の復活の力。それはどんなものか。イエス様の復活の力。それはどうしたら受け取れるのか。
(1)1:18a「こころの目を開いてくださるように」
「信仰の事実」というのは、こころの目が開かれて、はじめて把握され得るものです。わたしたちもまた、こころの目がはっきり開かれて、自分に、この自分にもイエス様の復活の力が与えられているんだ、ということを見れるようになりたいのです。
(2)1:18b「神の招きによってどのような希望が与えられているか」
希望の光の中に入って来なさい。そう神様はわたしたちを手招きしておられます。今は確かにわたしたちは長いトンネルの中を通っているかしれない。でも、前方には希望の光が見えるのです。勇気をもって進みなさい。明るい出口に、明るい光に入って来なさい。そう神様は招いておられます。だから、途中で人生を投げ出してはいけません。
(3)1:18c「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」
わたしたち神を信じる者たちを、ここで「聖なる者たち」と表現しています。そうして、聖なる者たちには、受け継ぐべき大いなる遺産、相続財産が用意されているというのです。わたしなんかは自分のお財布に一円もお金がない時、こんな妄想をすることがありました。「実は自分が世界一の財閥の会長の隠し子で、その会長が急に亡くなった。財閥から黒塗りの車がお迎えに来て『あなたこそ財産を継ぐべき息子さんです。ついては遺産6兆円をお受け取りください』 ああ、困った、どうしよう!」 しかしこれは、いかにもちっぽけな話ではありませんか? わたしたち神を信じる者たちを、聖書は「神の子とされた者たち」と呼んでいます。エフェソ1:5に、神はわたしたちを「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになった」とあります。キリストに結ばれてあるならば、わたしたちは神の子であり、神の息子たち、神の娘たちです。そういうわたしたちに、神様は受け継ぐべき相続財産を用意していてくださる。それは、使えばなくなってしまうお金のようにはかないものではありません。実に、生ける神ご自身が、わたしたちの受け継ぐべき嗣業、相続財産となってくださるのです。神がわたしたちの嗣業である。
(4)1:19「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」
現代英語聖書TEV第3版では、ここは、こう訳されています。
「わたしたち信じる者たちに働く神の力はいかに絶大であるか。わたしたちの中にあるこの力は、実に大きなものであって、神はこの力を用いてキリストを死者の中から復活させ、キリストを神の右の座に着かせられたのです」
日本語の訳と違うようですが、言っていることは同じです。大切なのは;
第一、わたしたち信じる者に神の力が今この瞬間働いていること。
第二、この神の力は実に大きなものであること。
第三、神はこの力を用いてキリストを死者の中から復活させなすったこと。
第四、神はこの力を用いてキリストを天に挙げ、神の右に座せしめたもうこと。
第五、この神の力は今わたしたちの中に与えられてあること、であります。
むすびとして
以上のむすびとして言いますならば、この神の力、復活の力は、わたしたちがあえてことさら願い求むべきものではない。なぜか? なぜならこの復活の力は、わたしら信じる者たちのうちに、すでに与えられてあるものだからです。すでに復活の力がわたしたちに与えられている。これが信仰の事実です。わたしたちは目が開かれて、この信仰の事実を認識し、それを享受すること。毎日の生活の中で、この復活の力を享受することが大切であります。
わたしたちの生活への適用として
昔18世紀のロシアにサロフの聖セラフィムという聖人様がおりました。この聖人様は広大無辺なロシアの森の中に住んで祈りの生活をしていた人です。この人の徳を慕って毎日いろんな人が訪ねて来ました。すると聖セラフィムは、会う人会う人だれにも「ハリストス復活!」「実に復活!」とあいさつしたそうです。それは別段イースターだけに限ったことじゃない。1月1日でも、5月27日でも、8月4日でも、11月3日でも、12月25日でも、毎日毎日いつでもどこでも、雨でも風でも曇りでも、病気でも元気でも、良い日でも悪い日でも、聖セラフィムは口を開けばただ、「ハリストス復活!」「実に復活!」と大きな声で、おおよろこびで、だれにも言ったのです。
これは何が大切かというと、わたしたちがキリストの復活の力を日々の生活の中で自分のうちに解き放って行くという、これが一番大切だ、ということであります。わたしは確かに老い、痛み、衰えて、小さくなって行くだろう。明るい日ばかりでない、暗い日、悲しい日、心がふさぐ日があるだろう。しかもなお、わたしは沈んでは行かない。わたしは自分のうちに今あたえられているキリストの復活の力に思いをいたす。その力は、どこにあるのか? どこか遠くにあるのではない。その力は大昔のものではない。その力はいつか未来のものではない。その力、キリストの復活の力は、信じるわたしの心の中に、聖霊を通して今この瞬間、生きて働いているのだ。わたしはその力を用いて今この瞬間を生きよう。復活の力によって生きよう。そう宣言するのです。自分に対しても、他人対しても、宣言するのです。「ハリストス復活!」「実に復活!」 復活の力?いつ?どこに? いま!わたしの心に!であります。今週一週間、わたしたちはそのような信仰に立って、進んで行こうではありませんか。お祈りいたしましょう。
登録:
投稿 (Atom)
タグクラウド
日記
異端カルト疑惑
ついーと
神学
説教podcast
聖書解題
説教
政治と神学
クリスマス
受難節の黙想
黙想
オルタナティブ・ワーシップ
聖書日課
詩
ついーと神学
カフェチャーチ
神学と文化
神学的批評
聖画
音楽
金言集
所感
グリーンベルトフェスティバル
救世軍
戦争
ガジェット
終戦記念日
きよめについて考える
チェスタートン
聖書
霊性
お知らせ
キャンプ
スピリチュアリティー・ブログ
新年祝詞
雑感
SPEACO
おすすめ
クリスチャントゥデイ問題インデックス
シャロームエクスプレス
ダヴィンチ・コード
トリビュート
バチカン
ブログ・アクション・デイ
マタイ伝略解
不審事案
世界大恐慌
備忘録
利用規約
夢
手紙
断想
歌
死について考える
法と神学
環境問題
証し